スタッフ野田です。
先月、3月11日に偉大なカスタムキューメーカーの一人、ジョスウエストキューの製作者であるビル・ストラウド氏が亡くなりました。
そこで急遽追悼ブログをお送りしたいと思います。
スタッフ野田はジョスウエストの工房を訪れたことはないのですが、ビリヤードエキスポなどで何度か会って話をしたことがあります。
この写真は1997年のスーパービリヤードエキスポの時だったと思います。
ビルは10代の頃からビリヤードの虜になり、当時の著名なプレーヤーたちに教えてもらえるという恵まれた環境だったこともあって、名うてのハスラー(賭け球師)として全米を渡り歩いていました。
16歳の頃には週に$500はビリヤードで稼いでいたそうです。
スタッフ野田は彼がワンポケットゲームをするのを見たことがありますが、生半可な腕前ではありませんでした。
トップの画像はジョスウエストのサイトにある画像ですが、キューメーカーというよりは、プロプレーヤーであるかのようなイメージです。自分の腕前には自信と誇りがあったのでしょう。
ビルは1968年からハスラー仲間だったダン・ジェーンスと一緒にジョスキューを作っていましたが、1972年に独立してコロラド州で自分のブランドのキューショップを立ち上げます。
その名前「ジョスウエスト」は、ダン・ジェーンスのジョスキューに思い入れがあったことを示しています。
東海岸にあるメリーランド州にあるジョスに対して、西海岸寄りにあるコロラド州でジョスウエストとしたのでしょう。
最初はJOSS CUES WEST としていましたが、1989年からJOSSWESTに変更されました。
ジョスとジョスウエストは全く異なるコンセプトで製作されているキューなのですが、同じ「ジョス」という名前が付いていることから両者はしばしば混同されることがありました。これを区別するために日本ではダン・ジェーンスの方の本家ジョスを「ジョスイースト」と呼ぶ人もいました。
ビルは引っ越しが大好きだったようで、ジョスキューの工房があったメリーランド州から、コロラド州→オクラホマ州→コロラド州→テキサス州→ニューメキシコ州と、1972年から2000年までの間で5回も引っ越ししています。
当初は工作機械が増えて手狭になったためでしたが、気分を変えたいという理由もあったようです。
キュー製作の工房を移転することは結構大変で、大きくて重い旋盤などの工作機械の運送はもちろん、集塵機(木材の中には削り粉が有毒なものがあります)の解体・再設置などに多くの時間と費用がかかるのです。
それでも例えばマイク・ベンダーは都会の喧騒から離れたくてアラスカへ移住しましたし、故タッド・コハラはショップに泥棒が入ってキューを盗まれたことから治安が良いところを目指して引っ越ししたりしています。
ジョスウエストはロゴマークが年代によって4種類あることが知られています。
多くがJWのイニシャルを変形させたものになっており、キュー尻内部のボルトにイニシャル、製作年度、シリアルナンバーを入れていたこともありましたが、これは尻ゴムを外さなければ確認できなくて面倒だということで不評だったようです。
最後のJとWをくっつけた左右対称のロゴマークが最も洗練されているとスタッフ野田は思います。
これはビルから受け取ったユニロック社の純正コンテナに入ったジョスウエストのロゴマーク入りラジアルピン用ジョイントキャップのセットです。
ユニロック社が製作しているユニロックとラジアルピンの開発にもビルは関わっています。
初期のジョスウエストはACMEと呼ばれる特殊なジョイントピンを使用していたのですが、後年はユニロックかラジアルピンを採用しています。ちなみにユニロックのジョスウエストは大変少なく、多くがラジアルピンとなっています。ビルにとってラジアルピンの方が好み、あるいはより良いジョイントとして自信があったのかもしれません。
また、ジョスウエストは、いち早くコンピューター(CNC)をキュー製作に取り入れたことでも知られています。
早期にコンピューターを製作に使用したキューメーカーとしてはジナキューのアーニー・ギュテレスが有名ですが、ビルはもしかするとアーニーより早く取り入れていたかもしれません。
これはビルがスーパービリヤードエキスポでコンピューターを使ったキューのデザイン制作のデモンストレーションをしているところです。
ちょっとピンボケしていますが、画面に表示されているキューには「The Sultan」という名前が付けられています。
バックの右側にサイトのトップに使用されていたイメージ画像があります。
左端がビル翁、その右の赤いジャケットの人はビリヤード解説・評論家として有名なウイリー・ジョプリング氏です。
ビルはジョスウエストキューを製作する傍らで、このようなキュー製作全般の向上を目指して新しいアイディアを出したり、他のメーカーの手助けをしたりすることもありました。アダムキュー、ユニバーサルキューの製作にもアドバイスを与え、大きな影響を残した人物でもあったのです。
このエキスポの時にスタッフ野田はビルにキューのオーダーを申し込んだのですが、「それなりの腕が無ければジョスウエストキューは使いこなせない」と言われて、どれくらいの腕前なのか問われたことを覚えています。
要するにジョスウエストキューは上級者向けのキューだというのです。その理由を聞いたところ、撞点の変化に敏感に反応するから正確なストロークをしなければ思い通りの球は撞けないとのことでした。
逆に言うと撞点の変化を最小限に抑えて手球の動きをコントロールできるというわけです。
一応「それなりの腕前」だということを説明して、親子8剣のキューを注文して翌年のエキスポに持ってきてもらいました。
スタッフ野田がビルにオーダーして作ってもらったのは後にも先にもその1本だけで、その他に入手したジョスウエストキューはすべてあるキューディーラーからのものでした。
そのディーラーというのがこの写真の左の人、ジョン・ライト氏です。バックに「WRIGHT CUE COMPANY」という表記が見えますが、これが彼が運営するキューの売買をする会社名(といっても彼一人ですが)です。
1996年のスーパービリヤードエキスポで撮影した、ジョン、私、ビルの写真です。
ジョンはアメリカでも屈指のカスタムキューについての見識を持つ有名なディーラーで、私の持つ知識の多くは彼から得たものです。私が彼に投げかけた質問は100を遥かに超えるでしょう。
ジョンはビルと仲が良かったようで、多くのジョスウエストキューを紹介してくれました。
私がビルと出会ったのはこの時が初めてだったのですが、ジョンが私を「この人はたくさんのジョスウエストキューを買ってくれている」と紹介してくれたので、一瞬でビルと仲良くなることができました。
インターネットなどなかった当時、ジョンは在庫のキューの写真を顧客に郵便で送って注文をもらうという手法を用いていました。今でも私の手元にはジョンからエアメールで送られてきた写真がたくさん残っています。
その中からジョスウエストキューを幾つかご紹介しましょう。
ジョンは1回に大体30本くらいのキューの写真を送ってきていたのですが、ジョスウエストキューが占める割合はいつも多めでした。
これほど多くのジョスウエストキューが一度に見られることは、なかなかないと思います。
テキサス州オースチンのアドレスになっています。
BCAショー(アメリカビリヤード協会が主催するビジネス向けのエキスポ)に来る予定があるなら、ジョスウエストのブースに寄って欲しい。$1,000から$10,000までいろいろの値段のキューを用意しているという案内です。
当時は電子メールなどありませんから、連絡はもっぱらFAXでとりあっていました。
さて、最後にもう1つビルの功績について書いておきたいことがあります。
それは「コレクターショー」についてです。
1995年にロサンゼルスのビルトモアホテルで「ショーケース・オブ・アメリカン・キューアート」という高級カスタムキューの展示会が行われ、次いで1998年には「ギャラリー・オブ・アメリカン・キューアート」が開催されました。
コレクターにとっては非常にファンタスティックなショーだったのですが、採算が取れなかったためか、その後こういったイベントは行なわれませんでした。
しかし2003年にビルは地元のニューメキシコ州ルイドーソでICCSというコレクターショーを開催しました。
(ICCS = International Cue Collector Show)
これを2009年まで毎年開催し、その後このイベントはコレクター有志の手で継続されています。
左から、ビル・シック、アーニー・ギュテラス、タッド・コハラ、リチャード・ブラック、ビル・ストラウド
いずれ劣らぬ一流キューメーカーたちです。このうち2人が鬼籍に入り、その他の人たちも高齢で現在はリタイアに近い状態の人ばかりとなっています。
日本でも北海道の松實氏が「トップ・オブ・キューズ・ニッポン」、JPBA内垣プロが「ファン・ミーティング・オブ・カスタムキュー」を何度か開催していますが、いずれもお手本となっているのはこのICCSです。
日本にはアメリカほどたくさんのキューメーカーはありませんが、コレクター同士でキュー談義に花を咲かせるのは大変楽しいものです。
マイフェイバリットキューでご紹介したジョスウエスト・キューです。
持ち主の方には大切にしていただければと思います。
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